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宮崎県 歴史 持田古墳群 [◆ 宮崎県 歴史]



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高鍋町にある「持田古墳群」は、5世紀から6世紀にかけて築造されて

大小合わせて85基点在しています。

前方後円墳9基、帆立貝式古墳1基、円墳75基からなり、造営期間は

4世紀~6世紀頃と推定されている。

昭和初期に大盗掘を受けており、副葬品など詳細な内容はわかっていないが

群中最大の計塚(1号墳・全長約120m)や、家形埴輪が出土した

帆立貝式古墳の亀塚(62号墳・全長約50m)などです。


石棺が露出している石舟塚、長径120メートルで県内屈指の壮大さを誇る

計塚帆立貝塚式古墳である亀塚など珍しい古墳がであります。


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持田古墳群からは、大陸から「邪馬台国」の卑弥呼へ贈られた物が

出土したことで知られております。


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宮崎県 歴史 神武天皇お舟出の地 [◆ 宮崎県 歴史]


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『 日向市 神武天皇お舟出の地 』

日向市の美々津町は、町内に流れている耳川河口の美々津港は

江戸時代には高鍋藩の上方交易港、明治・大正時代は

入郷地帯を後背圏とする物資の移出入港となって

美々津はその港町として栄えた。

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美々津町は、神武天皇の「御東征」の出発地としても知られています。

神武天皇は宮崎市の皇宮屋(こぐや)で御東征のための軍議をされて

大和へ向かうことを決心します。

そしてお舟出の地に選ばれたのがここ美々津であったと伝えられております。


当時の建物が残り、江戸時代は高鍋藩でした。

瀬戸内船運の西端にあたり、上方風の商家、操船・水運業者の家、漁家が連なり

国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されているのです。




宮崎県 歴史 宮崎城 城跡 [◆ 宮崎県 歴史]

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『宮崎県 歴史 宮崎城』

宮崎県内でお城と言えば、日南市の飫肥城、延岡市の延岡城(縣城)

高鍋町のい高鍋城(舞鶴城)、宮崎市佐土原町の佐土原城(松鶴城)

西都市の都於郡城などがあります。

宮崎県池内町の一帯にあったと言われる日本の城(山城)である。

1335年(建武2年)もしくは1336年(延元元年)築城。

南朝方勢力だった図師六郎入道隋円・慈円父子が築いた。

別名「池内城」。

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【歴 史】

宮崎城は、図師六郎入道慈円が南朝方に応じて挙兵した際に建てられた後

北朝方の土持宣栄によって攻められて落城した。

その後は土持氏の持城だったが、1446年(文安4年)に伊東祐堯が攻略して

家臣落合彦左衛門を城主とし、伊東四十八城の一つに位置づけられた。

1536年(天文5年)には伊東氏当主・伊東義祐(三位入道)が佐土原城が

火災で焼けてしまったため、居城を移した。

飫肥城攻略の重要な戦略基地として機能した。

1577年(天正5年)の伊東氏没落後は島津氏の持城となり

上井覚兼が城主を務めたと言われる。

1587年(天正15年)豊臣秀吉の九州征伐後、延岡城主高橋元種の所領となり

権藤種盛が城代となった。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで高橋氏は豊臣方に与した為

徳川家康に与した伊東氏家老・稲津掃部助によって攻められ落城した。

しかし、高橋元種は美濃国大垣城攻めの際に徳川方に寝返り

本領安堵となっていたため、翌1601年(慶長6年)に

宮崎城は高橋氏に返還された。

元和元年の一国一城令によって廃城となった。

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宮崎県 歴史 西南の役 和田越決戦場 [◆ 宮崎県 歴史]


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『宮崎県延岡市 西南の役 和田越決戦場 』

薩摩軍と官軍が戦った最後の激戦地

宮崎県延岡市の稲葉崎村和田越で、薩摩軍と官軍が戦った最後の激戦地です。

西郷隆盛率いる薩摩軍約3千5百人は、山県有朋中将指揮する

官軍約5万人に決戦を挑みますが、物量に勝る官軍の攻撃に

耐えられず、北川方面に敗走しました。

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その後薩摩軍は高千穂や神門などを経由して鹿児島に戻りましたが

西郷たちは鹿児島の城山で自刃し、西南の役は終結しました。

【西南戦争和田越決戦記】

西郷南洲延岡入り

明治10年2月鹿児島を発した薩軍は、熊本城攻めの植木・田原坂の激戦に敗れて

矢部に退き、人吉・宮崎・都農を経て、8月2日大貫の山内善吉家に

南洲翁は初めて延岡入りをして宿陣した。

10日原時行邸に宿陣、11日北川に於いて舟中露臥、12日熊田の

吉祥寺に宿陣13,14日は笹首小野彦治家に宿陣し

軍議を重ね15日未明北川を舟で下り

和田越戦場に向かった。


延岡陥落

8月14日各戦場より退却した薩軍は延岡に集結したが、政府軍の包囲攻撃を受け

和田越稜線に退き、明日の決戦に備えて布陣した。

延岡隊もこの日野田において降伏し、奇兵隊進駐以来の

延岡はついに陥落した。



宮崎県 歴史 美々津町 高鍋藩 [◆ 宮崎県 歴史]


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『日向市美々津町の歴史』

江戸時代、美々津町は高鍋藩の藩土であり、耳川の河口には

港があり参勤交代の船乗り場として利用しました。

日向灘を望む高台には、藩主が船待ちをする御仮屋がおかれていました。

美々津の港町として繁栄を支えたのは千石船を有した

廻船問屋たちでした。


備後屋、明石屋、播磨屋、泉屋などといった、取引のあった瀬戸内や

畿内の地名を屋号にして、耳川上流の入郷地区で

生産された材木や木炭などを大坂方面に

出荷しておりました。


その帰路、関西地方の特産品や美術工芸品が数多く持ち帰られ

遠く離れた日向の地に京や大坂の文化が持ち込まれました。


その名残は、商家の虫籠窓や堅格子、床机などの町並みにも

見ることができます。

廻船問屋は、明治時代から大正時代にかけて

最盛期を迎えることになりました。

「美々津千軒」と呼ばれるほどの多くの商家が軒を連ねます。


廃藩置県後の明治4年、細分化されていた府県の統合がなされ

延岡県(旧延岡藩)高鍋県(旧高鍋藩)佐土原県(旧佐土原藩)。

そして人吉県椎葉地方4村が合併して、美々津県が誕生します。

明治初期において、美々津には、宮崎県北部地域の中心地になりうる

立地条件が備わっていたことを示していたのでした。





宮崎県 歴史 綾町 綾城 [◆ 宮崎県 歴史]


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『宮崎県 綾城』

【綾城・歴史】

今からおよそ660年前の元弘年間(1331年~1334年)足利尊氏の家臣であった

細川小四郎義門がこの地方に下向を命ぜられ、その子義遠が収納使として

綾を領有し、綾に山城を構え、綾氏と称したころと考えられています。

綾氏は数代城主としてこの地方を治めていました。

室町時代八代将軍義政のころ、都於郡城を根拠として日向の国の

一大豪族となった伊東氏の家臣となりました。

したがって、綾城も伊東氏48城の一つとなり島津氏と戦う

伊東方の重要な役割を果たしました。

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その後江戸時代の一国一城制度により廃止されるまでの二百七十余年

綾城は日向の国の山城のまもりとして、現在の綾城は

昭和60年春日本城郭協会に中世山城の築城について

考察を依頼しました。

数次の調査に基づいた考察により想定され、戦国初期城楼建造物として

構築されました。

【構造データ】

別名 竜尾城

築城年代 元弘年間(1331~34)創築

築城者 細川小四郎義門

築城様式 戦国豪族の居城

主要城主 細川氏・伊東氏・島津氏

構造 縦20m横24mの石垣を土台にした木造2層建物見やぐら付

地上からの高さ 19m

綾城面積 1階 216平方メートル 2階 192平方メートル

物見やぐら 24.89平方メートル


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城内は歴史資料館として綾の歴史の歩みを振り返ることができるとともに

日本一の刀鍛治といわれた田中国廣の刀が展示されています。




宮崎県 歴史 佐土原町 佐土原十六烈士の墓 [◆ 宮崎県 歴史]


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『 宮崎市佐土原町 佐土原十六烈士の墓 』


貞享5年(1688年)、薩摩藩の江戸城御普請材を積み込んで出帆した

宰領河越久兵衛、河越太兵衛、成田小左衛門の3人は、13人の水主を

指揮して遠州灘を航海中、暴風雨に遭い、船頭権三郎は

荷物を捨てるよう進言しました。


13人の乗組員を助けるために死を覚悟した宰領の3人は

材木を捨てさせ、無事嵐を抜けます。

下田沖に着くと乗組員13人が無事佐土原に帰れるよう取りはからって

欲しいという嘆願書をしたため、3人の宰領は割腹して果てました。

これを見た船頭権三郎以下13人もこれに殉じて果てました。

藩のため部下のため殉じた3人の宰領と、その義侠心を見て

これに殉じた13人の水主は、徳ヶ渕地区に十六烈士の墓

して祀られています。


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【施設概要】

所在地 宮崎県宮崎市佐土原町下田島徳ケ渕霊園

交 通 JR佐土原駅から車で約10分

宮交シティから高鍋行きバス、徳ケ渕下車、徒歩10分

駐車場 なし ※入口に段差あり

トイレ なし






宮崎県 歴史 新富町 江戸時代 高鍋藩 [◆ 宮崎県 歴史]


『新富町 江戸時代 高鍋藩』

新富町は、江戸時代には現在の大字日置・三納代が高鍋藩、大字上富田

下富田・新田・伊倉が佐土原藩の領域でした。

高鍋藩は1万石で秋月氏という元は福岡県甘木市一帯を支配した

大名が転封により入城したました。


新富町域での江戸時代の名残は湖水ケ池における水請や水神信仰が有名です。

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飢饉などの恐れのある渇水が起こる時は藩主自らが湖水ケ池に

水請の祈祷をたびたび行っております。

この池には、高鍋藩の第7代藩主秋月種茂によって大和地方から

輸入されたとされるレンコンの栽培が有名で

現在でも町の名物となっています。


【秋月種茂】

日向国高鍋藩の第7代藩主で、第6代藩主・秋月種美の長男。

母は筑前秋月藩主、黒田長貞の娘、春姫。名君と呼ばれた

米沢藩主上杉鷹山の兄に当たります。

高鍋藩の「明倫堂」という藩校の創設者なのです。





宮崎県 歴史 延岡藩 [◆ 宮崎県 歴史]

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『延岡藩 歴史』

宮崎県の北部に位置する延岡市は、「チキン南蛮」の発祥の地でもあり

特産の野菜ブランド「空飛ぶ新玉ねぎ」で有名です。



【延岡藩・歴史】

そんな延岡藩(のべおかはん)は、日向国北部と現在の宮崎市の北部を

領有した藩で、牧野氏以降明治維新までは豊後国等の

一部をも領有した。

また、有馬氏期までの延岡は縣(県)と称していたので

縣(県)藩(あがたはん)とも呼ばれる。

藩庁は縣城(延岡城)。

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「延岡藩の領土(オレンジ色)」

当藩の始まりは、豊臣秀吉の九州征伐後の天正15年(1587年)に

豊前国香春(福岡県田川郡香春町)周辺の領主高橋元種が

延岡南部の松尾城5万石に封ぜられたことに始まる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて元種は、当初は西軍方であった。

しかし、九州南部の小領主である秋月種長・相良頼房らと密謀し東軍へと寝返った。

これにより江戸幕府より旧領を安堵され、県藩の成立をみた。慶長6年(1601年)

元種は県城(延岡城)を築城して松尾城より移り、以後明治維新まで

うこの城が藩政の中心となった。

慶長18年(1613年)、幕府の罪人水間勘兵衛を高千穂に匿ったとして改易処分となり

陸奥棚倉藩主・立花宗茂預かりとなりました。

領主高橋元種は、日向国高鍋藩から高橋氏に養子にきたそうです。

【歴代藩主】

高橋家 外様 5万石 (1587年 - 1613年)

元種(もとたね)〔従五位下、右近大夫〕

有馬家 外様 5万3千石→5万石 (1614年 - 1691年)

官位官職は歴代、従五位下・左衛門佐、日向守

直純(なおずみ)

康純(やすずみ)分知により5万石

清純(きよずみ)

三浦家 譜代 2万3千石 (1692年 - 1712年)

明敬(あきひろ)〔従五位下、壱岐守〕

牧野家 譜代 8万石 (1712年 - 1747年)

成央(なりなか)〔従五位下、備後守〕

貞通(さだみち)〔従四位下、備後守・侍従 京都所司代〕

内藤家 譜代 7万石 (1747年 - 1871年)

政樹(まさき)〔従五位下、備後守〕

政陽(まさあき)〔従五位下、能登守〕

政脩(まさのぶ)〔従五位下、備後守〕

政韶(まさつぐ)〔従五位下、能登守〕

政和(まさとも)〔従五位下、備後守〕

政順(まさより)〔従五位下、備後守〕

政義(まさよし)〔従五位下、能登守〕

政挙(まさたか)〔従五位下、備後守〕



宮崎県 高鍋町 歴史 日向国高鍋藩 江戸時代 [◆ 宮崎県 歴史]


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『宮崎県 高鍋町 歴史 高鍋藩』


【江戸時代】

江戸時代の高鍋は引き続き秋月氏が領有し、17世紀後半に城地名を高鍋としました。

廃藩置県まで高鍋は、秋月家3万石の城下町として栄えました。

江戸時代後期には、経世家・農学者佐藤信淵の著した「経済要録」で

「侯国財用富謄なるは芸州をもって第一とし、(中略)松代、高鍋

大村(中略)等これに次ぐ」と評価されて、全国でも

有数の豊かさを誇っていました。

江戸時代の高鍋からは、藩校「明倫堂」を創設し人材育成に努めた7代種茂公

米沢藩の財政を立て直すきっかけを作った上杉治憲(鷹山)公の兄弟をはじめ

多数の偉人を輩出しています。

「年 表」

1600年 関ヶ原の戦い 秋月種長本領安堵される

1604年 高鍋藩初代秋月種長 居城を櫛間から財部に復する

1609年 財部城に三層の櫓を建てる

1615年 このころ上方下方騒動おこる

1666年 上方下方騒動終わる

1673年 財部城普請はじまる

財部を高鍋と改める

1682年 木脇3,000石(現在の国富町の一部)を分知

1690年 山陰・坪谷村一揆。延岡藩から領民約1,400人が逃れてくる

1713年 廉の屋敷に稽古所を設ける

1761年 家中に倹約を達する

多子農民への扶助制度(現在の児童手当に相当)開始

1762年 休日の制、拾子の禁止を達する

1769年 上杉治憲 米沢藩主となる(後の上杉鷹山)

1778年 藩校明倫堂完成

1792年 高山彦九郎 高鍋へ来る


高鍋城下絵図

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藩政時代の高鍋の絵図。絵図の右側が北となり、右端の川は小丸川

左端の川は宮田川である。



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